無色の世界に虹は架かるか

明日、日記のお引越しをしようと思います。明日までは、今までどおりダラダラッと書く予定ですが、引越し前に今のエイトへの気持ちをちょっと書いておこうかと。久々に思うまま長文書いたら訳の分からないことになった…わけのわからないのは常のことですが。


最近の日記からお察しくだされば幸いですが、今の私は「エイト最高!あいしてる、だいすき!」と叫べる状態ではありません。(って、過去にそんな状態があっただろうか)(あった、あった) そんな心持ちで書く文ですので、嫌な予感のする方は先へ進まないでください。私の自己満足です。




エイトは私にとって*1、唯一無二で絶対で一番の存在でした。それは確か。そうじゃなきゃ、コンサートもライブもまともに行ったことのなかった私が一人で代々木になんか行けない。そうじゃなきゃ、一人でまともに出かけたこともなかった私が夜行バスで松竹座になんか行くはずない。ましてや採用試験終わりのその足で東京ドームに向かったりなんて、そんなバカなこと。私の四年間はエイトが起点であり基点であり、エイトひとつがなかったと仮定するだけでその四年は殆どが消えてなくなります。私の大学生活とエイトは不可分です。「エイト担でない」という仮定が成り立たないほど、エイトが一番だった。でも、今は違う。


私は、年明けから3ヶ月間の自分を「エイト担」と言えません。最初の一ヶ月は、一時的なブームと習慣的なテンションの上がり下がりの波だと思ってた。一応しゅちしんは音楽活動休止を発表していたから、解散とかそういうのじゃないとしてもしばらくは落ち着いてるだろうし、でんおうに至っては(こんなこと私が書いたらファンの方々に刺されそうだけど)既に完結したものであって、これ以上進みようのないものだったし*2。だから、エイトへのテンションが下がってるのも、一時的なものだと思っていたのです。それが2月になり、3月ももう終わりそうな今になっても、変わらない。何度か無理矢理上げようと試みたのですが、それで一瞬は上がるのですが、やはり前のようにはいかんのです。もちろん好きなんだけど、決定的に何かが違っている。


私にとって、エイトを応援することは「8人を切望すること」とほぼイコールでした。それは私がエイト担を名乗ろうとしたそのすぐ4ヵ月後が2005年の7月で、それ以降もその十倍の時間エイト担を名乗っていたからです。エイトを応援した時間の九割以上がそうだった私にとっては、結局、「8人」を望むことこそが私のエイト担としてのアイデンティティだった。本人らの気持ちがどうであれ。


では、今はどうか。ずっと考えていて、ふと気づいたことがありました。年明けに何があったか。いつからテンションが下がったか。先にお断りいたします、これを書くとまるで大倉さんのせいみたいになりますが、決してそんなつもりはありません。ただ、契機がそこだった気がする、というだけです。


元日のウェブが、8人の未来を否定しているように見えたから。だから、年明けからずっとテンションが上がらなかったのかなあと、ふと気づいてしまいました。乱暴な言い方をすれば、8人を諦めたエイトならいらない、と。もちろんエイトに8人を望む以外、何も望むことがなかったわけではありません。7人でしてきてくれたことはどれも楽しかった。それは間違いなくそう思う。でも私は自分で思っているよりもずっとエイトが8人でいることに執着を持っていたようで、その元日を境に、当時も見に行く気の起こらなかったFLAT FIVE FLOWERSのことや、7人にすらならないジャニ勉や、「未定」のこととか、これら全てを同列で考えることはできませんが、そういう不完全燃焼で燻っていたものが目に付き始めました。メンバーの個人仕事や自己実現は歓迎こそされ嫌がる理由はこれっぽっちもないのですが、考えれば考えるほど気になってしまうのが人情というもので、もはや自分がエイトを好きかどうかすら。


どうかすら、と言ったところで三ヶ月ぐるぐるとした結果、結局好きは好きなんですが、もう「エイト担」は名乗れないと。私の名義更新は7月ですが、今のところそれをするつもりはありません。元々仕事の関係上4月以降は茶の間になろうと思ってはいたし、茶の間であるなら名義は必要ないので、良い機会です。こんな中途半端では「担当」はやっていけないことは、この四年でよく分かったもの。


エイトがどうこうと言うよりは私がどうこうの問題で、単に需要と供給が一致しなくなったのでしょう。ただこの四年は本当に楽しくて、それは他の誰でもないエイトのおかげで、こんな楽しいことがあると初めて知りました。人は嬉しくて泣き崩れることがあると初めて知りました。エイトの背中を見ているのが幸せでした。それがなくなるのはどうにも不安定で、あるべきものがない空虚がどうにも寂しくて、泣きそうになるんだけど、もう泣けもしない。


たとえば今8人になったとしても、7人が確定したとしても、私はもう泣けない気がします。あれだけ結果を望んだのに、今はもう、どっちに転んでも「ふーん」で終わってしまいそう。というより、そういう状況への想像がもう浮かばないのです。今より先のエイトを想像できない、つまりエイトに何も望んでいない。これはひどい


エイトに何も望まない生活は、楽です。とっても楽です。でも無機質で無味無臭で、そのくせ足元は覚束ない。そして、色のない生活はつまらない。けれどもどんな色が欲しいのかはもうわからない。


だらだらと書いてみたところで結局、自分でもよく分からないからとりあえずエイトから一歩引いてみよう、といったところです。それでもカレンダーは買っちゃってるし、きっと結局アルバムも買うし、Canジャニくらいは録画するだろうし、本間ディレクターにはぎゃーぎゃー叫ぶでしょう。なんならテレビ誌だって中身の確認もせずに買っちゃうでしょう。*3 それでも事有る毎にエイトを基準にして、ってことは多分もうない。それが社会人になることであって、偶然その時期が重なっただけなのかもしれません。もともと私の考え方が重すぎたのかもしれない。東京でも見られるコンサートをわざわざ大阪まで見に行って、丸一日使ってひいひい言いながらHDD残量を確保してドラマや番組をできる限り録画して、自分に関係のないことで一喜一憂して。それでもたくさん録りこぼしてるし、コンサートにだって大した回数も入っていない自分はまだ適当なほうだと思っていたけど、これからはそれ以上に適当になります。見なくても平気。でも見たら楽しい。その程度でいいやと。


オタ卒とか担降りとか、とんでもない。唯一無二の一番でなくなっただけです。いちばんが増えただけのこと。ただその「いちばんの増えた状態」で、何かの片手間に「担当」を名乗るのは違うと判断しただけです。これは今の私のこだわりであって、他の方の考え方やスタンスを否定するつもりの考えではありません。未来の自分とすら平行線になるかもしれない、ちっぽけなこだわりです。しかもその、エイトを唯一たらしめた希望願望を勝手に絶ったのも私自身であって(だってまだ誰もそんなこと明言してない)、それで寂しい寂しい言ってるんだから世話ないんだよ、ほんとに。まあ性根がオタクなうえに恥知らずなんで、またエイトが唯一になったら臆面もなく「エイト担です☆」とか言い始めると思います。おおう、なんて恥知らず。でもその可能性、性格上全然否定できない。(苦笑)


結論が結論になってないと言うか、どれが結論なのか自分でもよく分かりません。すっきりと整理されたのかも分かりません。三ヶ月悩んで結局この有り様か…。けどエイトが好きで、何かいいことがあったらきゅーんとするのは変わらない。わちゃわちゃっとしてるのを想像しただけで幸せになれます。やっぱり8人でいてほしいです。エイトの「全員」が7人を表す代名詞になっても、私の「全員」は8人でしかないのです。未練はたらたらです。おかげで最近はミニアルバムもロマネも聞けないしエキサイトもスピリッツも見られないし、たらたらもいいところです。でももうしばらくすれば全部解禁できてしまうと思います。でもやっぱり、8人がいいです。

*1:オタクとしての私ですが

*2:と思ったらまた映画やりますが。

*3:立ち読みできないだけだけど。